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星降る夜に願うこと -もちのブログ-

NEWSごとメモ。クラシック音楽寄りな見方してしまうヨ。

アンテナはいつもフルスロットル - QUARTETTOのDVD(BD)もしくは『できることならスティードで』の感想、あるいは2016年の反省 -

わたし以前「このひとは人を変えるひとだなあ」と思ったことがありましたが、なんだか久しぶりにそう思いました。たぶん自分らしく生きてるだけで他人の何かを変えちゃうしげあき。そんなしげあきがだいすきです。


火曜日。休めないのでもう何から見るかを決めてたわたしは(ディスクがあそこで分割されてなかったらゆうやソロから4曲だったけど仕方ナス)IZANAZUKIで音の良さにぶっとびながらWonderを見て本気で気が狂うかと思いました。本気で。本気で!
過呼吸気味で泣きながら「わたしこうやって生きてた」って何度も思いました。こうやってころされたかった。これを待ってたんだ。あたしこうやって生きてたんだったと殴られたように。何度も、そこから何度もしんでなんども救われるような感覚は久しぶりでした。シリウスでさらに号泣したのは言うまでもない。延々飢餓を埋めるようにループしまくるのは予想してたけど、予想以上に自分の飢餓状態が末期すぎて「わたしほんとにこのくらいのパンチないと物足りないんだな」と泣きながら現実に失望した。


***

4月の福岡公演のあと、「あのひとたち、というかしげあきはほんっとみてると悔しいくらいにいいんだよね…」と言ったらさすがのうちの母も「それはわからん」と言ったのですが*1、うちの母は相当頭がよく感受性豊かな方なのこれはおそらく『アウトプットを日常的にする人生だったかどうか』という違いなのではないかと思いました。


父を小4のときに亡くした母はおそらく習いごとを自由にできなかったのだと思います。でももって生まれた感受性だけは豊かなのでどうにも生きづらかったらしく、そんな彼女がとった対処法が「アンテナを閉じる」。
昨年疲れから入院したときにちょうど発売して間もなかった『傘をもたない蟻たちは』を読ませたんですが、感想といえば根津爺のところはがっつり食い気味にしゃべり、あとは「他は全部通ってきたからわかる…」というもので、やだもうこの人にはかなわねえ…とぞっとしたものです。さらっと知ってるといえるその年の功よ。

そんな彼女に倣ってわたしもアンテナ閉じてみようと思った、それが間違いだったなあといまなら思う。


6月、オーラスも終わり、例年ロスに悩まされ体調崩すのであまり考えないよう、考えないようにし、仕事しよう仕事しようと思っていたら……
がっつり体調崩しました。いまだに仕事中苦しんでで心配されるし体重戻らないし(体調崩すと増えるタイプ)土日は泥のように眠る。おかげでさだまさしも90%くらいしか楽しめなかったと思う…もったいないことをしました……おじさんの感性だいすきなのにちょっと閉じてたんだよな…開け方がわからなくなっていたのかもしれない。

そう、ツアー中の合言葉は「アンテナ解放」だったんですね。普段は使わなくすむ感性のアンテナをフルに使おう。いつも持て余してるものを使ってわたしを元気にしてやろう。そういうつもりで挑んでました。それこそ愛の交換はいっつも真向勝負。

わたしと母の最大の違いは「アウトプットをせざるを得なかった」「アウトプットをする機会にそうそう巡り合わなかった」ここだと思います。だからこそ母は閉じれるのだろうし、わたしは閉じたらこんな感じに体調を崩す。
火曜日、母に「わたしこうやって生きてた…!」って泣きながらいったら「どんなでもいいからあんたの好きなように生きなさい」と言われたので(感受性持て余して泣いたのが何度かある)もう気が狂った人だろうがわたしはわたしのままでいこうと思いました。

というのも、ドキュメンタリーのことばも、『できることならスティードで』も、どちらもしげあきが自由だからです。あのひとの思考回路はとても自由。制約というものを軽々と超えてしまう……そこにおそらく「アイドル」としての葛藤はあったとしてももはや過去形なのではないかと。その証左のひとつが、『スティード』内にあった「女装対決」であって、それをなんら臆することなく書いてしまうのはそこが彼だけが持てる強みでもあるからだろうなと。

“「できるもんなら、やりはったら?」”

それはわたしが毎度彼に言われていることでもある気がします。福岡公演の『星の王子さま』で悔し泣きをしたのはまさにこれでした。できるもんなら、やってみろ。追い付かない背中に何度恋すればいいのかわからない。

「明日からライブを追いかける」

ああ、わたしこの人のファンでよかったなと泣いたのは言うまでもない。わたしが思い描く“表現者”は、おそらくピアニストが原点なのだと思うんですが、それに匹敵する自由さと距離感を持てるのはこの人だけなんだなとうれしくて、そして悔しくてならない。

 

終わってみて思ったんだけど、追いかけてるなと思ったんですよ、ライブを。もちろんできることは100%やったんだけど、「いやまだいける」、と。「いや、まだ満足できない」。なんか、いままでのライブで俺、一回も満足しないんだなって思う。それはお客さんを楽しませたいっていう*2のもあるし、自分としては納得できるところまで…やれることは100%やってるんだけど「まだいける!」って、なんか、俺、ライブを追っかけてるんだなって今日、思ったんですよね。あのアンコールでとか、『ヒカリノシズク』ではけるとき、もちろん、最ッ高に気持ち込めて、最高の、自分ができるすべてで集中してやってるんだけど、……なんなんだろうなこう、手の届かないもんなんだなーと思って。だからこそまたこう手を伸ばしてしまうっていう……今回それをすごく痛感しました。

来年を追いかけるんじゃなくてさ、明日から追いかけちゃうんだよきっと。俺すごい反省しいだから。自分ではできることやったと思うんだけど、これDVDになったりしてさ、まあなってるわけじゃんこれ見てるってことは。また見るわけじゃん。すごい自分にさ、これうまくできたなって思うこともあれば失望することもあってさ。「くっそー!」と。やっぱ明日からね、ライブを追っかけてると思うんだよね。

 


勢いで起こしてみたけど、ここにはわたしのツアー中のきもちとか、演奏者やってるときのきもちとか、「芸能」(アイドルとか歌手とか作家とかすべてをひっくるめて、広義でありそもそもの「芸」「能」を指して)に求めるすべてが詰まってる気がしました。
「手を伸ばす」はコンサート中にわたしがやってることだし(無意識なんだがよくやる)、「明日から」「追っかける」これこそがアウトプットインプットのサイクルなんですよね。だからこそ自分に返ってくるわけです。

だからこそ、しげあきってひとを変えてしまう危うさも強さもあるんだなーと思うわけです。


***

ファンとアーティストの間にはぜったいの壁があるんですよ。
それは例えば時間でもある。100年以上前のロマン派の作曲家とは生きてる時代が違う。好きなピアニストは日本に住んでいない。これは物理的距離という例え。なにがしかの距離がある。

そこで大事なのはきっと、何かを与えてもらったときに、受け手が何を思って行動するか、だと思うんです。

だってさー、例えばだけど、もう鬼籍のショパンからなんの物理的なファンサをもらえばいいのさww もはやもらえるのは楽譜を通した思想だったり時代の面影だったりするわけで、でもそれをわたしたちは一生懸命追ってるわけでしょう。それが「交流」なわけです。魂の交差というか。
同時代、同じ場所にいたという証拠としてファンサがあるのはありがたいなと思う一方で、それ以上に何かがあるとしたら、その「影響」とか「交流」だと思うし、だからこそわたしはいちいちしげあきの文章に関して「最大のファンサ」だと言ってきてるのではないかなと思い返してました。もしかしたらまんま『閃光スクランブル』のあとがきに書いてるのかもしれないけど。

絶対的な壁の前でわたしはどうやって生きるのだろうね。


閑話休題


***

DVD本編は書くこと多すぎるので『スティード』に絞ると、ちょうど大阪公演あたりでわたし自身が『旅』についてのエッセイぽいの書かなければならず、そのときの手法のひとつにしたのがこういった『広義の旅』だったので、これはもうとてもとてもうれしく思ってます。足を運ぶことだけにとらわれず、広く自由に思考し表現する。これがエッセイの醍醐味なのではないかと思っているので本当にうれしい。それと同時に(『チュベローズ』でおそらく文字数制限等の理由で満たされなかった)言語回路の飢餓が一気に満たされた。ああ、表現ってこういうものだよね、と。自由であること、とらわれずないこと。

飢餓状態…つまりハングリー精神に満たされたとき、って、ひとが輝くときなんじゃないかな。

加えて化粧についても触れてあるのがうれしかった。荻原規子ファンではなくともこの化粧の呪術的な部分に関してはうなずけるだろうし、この『スイッチの使い分け』こそがしげあきの魅力のひとつであると思っている……そんなわたしは板の上で演奏するときはだいたいアイメイク濃いめにしてます。「いつもと違う心境になれるものよ」と、いま『RDG』の2巻が近くにないのでうろ覚えですが、化粧の呪術的な生死について触れている、これこそが彼がまさに「芸能」のひとなのだという……それこそコンサート中の“第二形態”がまさにそうであるように自分で自分へ「まじないをかける」。だからこそしげあきの“スイッチ”は魅力的なのだと、痛感した次第でした……。


また、小山さんに関して。

“「NEWSがついてるから」「明日からもがんばれよ」「受け止めてやるよ!」”。

ドキュメンタリーで、「4人の攻撃」といったこれもまさにそうでしたが、それ以上にこれらの言葉…「感情のナビをする」、これをもっと大事にしようと思いました。

わたしはわたしをおろそかにしすぎた。そのツケがこの体調不良なんだと痛感してます。
自分に厳しくある前に、自分を大事にできない人は表現もできない。と、そんなこと誰かも言ってた気がしますが、まさにそういうことじゃないのかなと思うんです。


わたしは周知のようにしげあきの体のラインがとても好きですが、今回とくに縄跳びのシーンで「フィギュアスケート選手かよ…!」ってうなったくらいにきれいだったのですけどもねもうあれって女のひとだったらふつうに「いい身体してるね」っていうセクハラを受けそうなやつだと思うんですが(褒めてる)、それもおそらく色気なのだと思う。

色気、という、『色』というのは、生気なんですよね。「文脈が色づく」とか、「ヴィヴィッドな演奏」とか。そういうのって全部、「生きる力」なんだと思う。

そういえばうちのおかーさんも生きる力の強い人だった(あれを回避してるのはなにかの軌跡か本人の気持ちでしかない)。それっておそらく彼女が自由だから身につけられた力ではないかと思います。うちのおかーさんすごい。


“「明日からライブを追っかける」”
生きたい力が強いひとだな、と思います。生きる力が強い人だなと思います。
だからこそすきだし、だからこそわたしもそうやって走っていこうと思う。

おかーさんじゃなくて、ほかの同僚でもなくて。
忘れかけてた「もちをらしい」生き方をもっかいやってみよう、と、そう思えたQUARTETTOの円盤だったし、『できることならスティードで』の第1回目だったのだと思います。

タイトルは、「でありたい」という思いを込めて。 

 

 

*1:もちを母:ガチのさだまさしファン。先日の有楽町コンサートでは初の遠征だったため娘に「半券返して」と言い、普段なら並ばないスタンプ列に並び、グッズは「使わないから持ってても仕方ない」と買わなかったガチさだまさしファン。ソロになる前からのガチファン。おかげで娘のライブデビューがさだまさしの野外公演。当時2歳。天候は雨。

*2:ここで「欲望」って言いかけた?