星降る夜に願うこと -もちのブログ-

NEWSごとメモ。クラシック音楽寄りな見方してしまうヨ。

音楽の言語化と「蜜蜂と遠雷」(と、一瞬NEWS)

とくに「蜜蜂と遠雷」を読みながら、音楽を言葉で紡ぐとはなんなのか、ということを考えていました。

 

そもそも「言葉に直す」ってのはすごく不毛な作業だと思ってて。そんなこと言うわたしは、コンサートのこととかは基本的にメモのつもりで書いてるんですよね。
でもほんとまぁーーーレポートとか脳内で進むスピードにわたしのタイピングの指が追いつかないからめんどくなるんですよ、マジで。それでもメモりたいから書いたりするんですが、わたしの場合も「蜜蜂と遠雷」も、ピアノを中心とした音楽から受けた印象などを言語化してるわけで……なかなかに不毛っちゃ不毛です。

作中にもあったけど、弾いてる間って人格が何人もいてそれが並行していろいろやってるというのも事実。

 

その中で言語化できないものを言語化しようとするのは、もしかして人間の知性が持つ本能みたいなものかなとも思いました。

 

この感覚なんなんだ?  この感覚なんなんだ?

 

っていう問いかけに対するアプローチというか。

 

たぶん、音楽が言語化できなかったときとかに有効で、言葉は言語化できるときに有効なのかなあ、とか思ったりします。まだはっきりしないけど。(このあたりは作中でも触れられていますが)

 

言葉には言葉のチカラがあるので、それを媒介にせずにダイレクトに「その事象や現象」に触れるのが音楽で、言葉というのはそのダイレクトさをやわらげたものなのかなあ、とか。(ショーペンハウアーもこのへん触れてた)

 

言葉は人間特有のものだし、音楽もそう。中世くらいまではいまと違って高等な学問だったようだし(いまが変な具合に「学問として」細分化されすぎている気がする)

 

 

「蜜蜂と遠雷」の中にはたくさんすきなところがあるけれど、とくにネタバレにもならずに、そしてハッとしたのか、とあるキャラクターが考えていたこと。

 

 凄まじいテクニックを持ったピアニストは大勢いるのに、そうしたヴィルトゥオーゾの中からなぜコンポーザー・ピアニストが出てこないのか(中略)いわゆる「現代音楽」の大部分は限りなくは狭いところで活動する、作曲家自身と評論家のための音楽となっていて、必ずしも弾いてみたい、聴いてみたい曲ではない。

そこをつなぐピアニストが出てこないものだろうか。(中略)

次の世紀にも、その先の世紀でも引いてもらえるたくさんの新たな「クラシック」曲が出来たら。

 

 

生物でもなんでも、進化というのは爆発的に起きるらしい。ある日突然、進化の大爆発が起きて、多種多様かつ「オリジナル」なものがいっぺんに現れる。徐々に、ではなく、同時期にすべて出揃うのだ。

それと同じことが、ある時代、音楽の世界において、突然起きたのだ。(中略)

音楽の進化って、なんだ?

 

このへんは個人的にもうんうん唸ってたところでもあるので、わかるボタンをぐいぐい押したくなってました。

なぜ進化は爆発的なのか。ーー言ってみればなぜNEWSが「いま」「そこに」「その状態で」揃うのか、と同じだと思うのです。

 

すべての者を地獄に連れていく(そこは限りなく天国に近い地獄なのだが)

 

これコンサートにまんま置き換えると、かなり的を得てるもんなあ(苦笑)。

 

 

 

およそ、音楽の言語化(もしくは世界の事象の言語化)というのは、わたしの至上命題のひとつになったなあ、と思ってます。

 

この本にはふだんわたしが考えている言葉がいろいろあった以上に、まだ言語化できていないーーしかし確実に考えていたであろうーー言葉があり、結びはこれではないのかな。ふたつだけどね(苦笑)。

 

一瞬と、永遠と。再現性ーー

 

そして、

 

音楽が本能なんだ。

 

 

もし、音楽がなんなのか、何がいいのか、なぜ弾くのか、何を目指してるのかーーそれはおよそジャニーズ含めてエンタテインメントの世界に生きるひとたちすべてに当てはまることですがーーそれがわからない人が読んでみても、……もしかしたらこの本なら、少しだけ、それを「生きる」ことの一つに組み込んでいるひとたちの考えが、わかってもらえるんじゃないか。

そんな、救いの手がたくさんある作品だ、と思うのです。

 

 

蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷